四時間目終了のチャイムは、戦争開始の合図である。
 幸いこの高校では食堂と購買の場所が分かれて存在しているため、昼食を食いっぱぐれるほど混み合いはしない。
 しかしそれでも、昼食戦争は勃発するのである。
 自然の摂理とでも言うのか、とにかく、それは起こってしまう。
 そのため普段はしばしば廊下を走る生徒の姿が確認されたものだったが、この時期だけは例外だった。
 三年生が卒業式を無事に終えたため、全校の生徒数が三分の二に減っているからでだ。
 食堂の席にも余裕ができ、それは他学年の生徒と待ち合わせをしてからでも十分に確保できるほどだった。
 そんなわけで祐無達は、いつもの顔ぶれでゆったりと昼食を摂ることができている。
 とは言っても、祐無と一緒に居るのはクラスメイトの潤と名雪と香里、それと香里の妹の美坂栞の五人だけだ。
 とりわけ大勢というわけでもない。
 直哉は部活の仲間と一緒に食べることにしているし、三年生の川澄舞と倉田佐祐理は卒業済み。
 後輩の天野美汐は、真琴と出会って少しは社交的になったものの、まだ学校では相変わらずだった。
 真琴やあゆも、この学校の生徒ではないので一緒に食事をすることはできない。
 傍目には男女比2:3、しかしその実1:4というその五人は、揃って美坂姉妹合作のお弁当を食べていた。
 栞はいくら注意しても二人分(祐無と自分の分)以上の量を作ってしまうので、今では香里が手伝うことで、逆に全員分の弁当を作ることにしている。
 毎日作って来ているので大変なはずなのだが、当人達二人は姉妹の交流が増えて逆に喜んでいた。
 名雪も料理という香里との共通の話題が増えて喜んでいるし、男二人(祐無含む)は昼食代が浮くので言うまでもない。

「ごちそーさま。毎日毎日ありがとな」
「どういたしまして」

 やはり唯一の男だからか、食べ終わるのは潤が一番早い。
 そして潤が弁当箱を片付けて香里に手渡す頃に、祐無が二番目に食べ終える。
 潤と同じ量を必死に食べているのだが、自分が必死であることを周りに気取られてはいけないため、内心、彼女は食事の度に疲れていた。

「オレもごちそうさま。栞の料理は相変わらず甘ったるいな」
「えぅ、そんなこと言う人嫌いです」
「そうだぞ相沢、昼飯奢ってもらってる身で何を言う。それくらい我慢しろ」
「北沢さんも嫌いですっ」
「え、なんで俺まで……」
「否定してあげないからだよ」
「そうですよ。そんな人にはもうお弁当作ってきてあげません」
「気にするなよ栞、社交辞令みたいなものなんだから」

 祐一のフリをしていなければならないのでそれらしい感想を言った祐無だったが、その所為で潤が弁当ナシになってしまうのは気が引けるので、彼女は慌ててフォローした。

「でも、その割には相沢君、栞のお弁当を必死になって食べてるわよね」
「ぐはっ!」
「……そうなんですか?」

 今のは痛いところを突かれた。
 もし自分が必死に食べている理由が『甘いから』ではなく『量が多いから』なのだと悟られてしまっては、色々とまずいことになる。
 秋子の目すら誤魔化していた祐無だが、注意すべきはむしろ香里だったのかもしれない。

「ええそうよ。なんだったら、明日のお昼に相沢君をじっくり見てみなさい」
「そうしてみることにします」
「待て待て。そんなことされたら食べるに食べられなくなるじゃないか」

 最後の一言で即座に口実を作っておけるあたり、祐無もなかなかのものである。
 こうしておけば、食事が遅くなってしまっても言い訳ができる。
 しかしそれでも不安は消しきれないもので、祐無は話題を変えることにした。

「それより、今日はよく弁当なんて作ってこれたな。昨日は香里の誕生日だったのに」
「なに言ってるのよ。もう誕生日だからってハメを外すような年でもないでしょ?」
「そうかな? 私は誕生日だと嬉しいけど」
「私も嬉しいです」
「あんたたちは黙ってなさい」
「そうそう。今どき誕生日に浮かれる高校生なんて、普通は恋人がいる奴くらいだって」
「……そっか。そういうものなのか」

 祐無は、誕生日にいい思い出を持っていなかった。
 祐無の誕生日とはつまり祐一の誕生日でもあり、相沢家長男の誕生日ともなると、当然のように盛大なパーティーが開かれる。
 しかし、祐無はそれに出席することができない。
 自分の誕生日であるにも関わらず、独り寂しく夕食を食べて過ごすのが彼女の常だった。
 祐一達も夜遅くに帰ってきては『疲れた』とのたまい、お風呂に入るとすぐに寝てしまう。
 パーティーに出席してもしなくても、誕生日とはつまらないものなんだなというのが彼女の正直な感想だった。
 それに祐無の場合、自分の出生そのものが、あまり喜ばしいことではない。
 だからそれを祝おうとしても、一家四人、全員が重い雰囲気になってしまうのである。
 そういう訳で、祐無は誕生日を祝うという神経が理解できないのだ。
 だから世間一般の高校生にとっても誕生日がそれほど嬉しいものではないと知って、彼女は人知れず安心していた。
 彼女にとって、普通の高校生と自分の共通点を見つけられることほど嬉しいものはない。

「誕生日といえば祐一さん、昨日はなんだか元気がなかったですよね?」
「ぐ……そ、そうか?」

 話題の転換の仕方を間違えたことに気付いた祐無は、すでにこの時点でおよび腰になっていた。
 この場にいる全員が祐無を気遣ってその話題を避けていたというのに、栞だけがそれに気付かずに話を進める。

「そうですよ。ね、お姉ちゃん?」
「ええ、確かにそうなんだけどね、栞……」
「わっ、だめだよ栞ちゃん、祐一、昨日は私が寝る時間になってもまだ落ち込んだままだったくらいなんだから」
「え……そんなになの?」
「そうなんですか?」
「……マジか?」
「おいおい……」

 話を振られた香里はやんわりと栞をなだめようとしていたのだが、この中でただ一人昨日の祐無の様子を知っている名雪は、焦って栞を諌めようとして、逆に口を滑らせてしまった。
 それに対する三人の反応は言うまでもない。
 名雪自身も口に手を当てて後悔しているが、後の祭りである。

「名雪……お前はフォローのつもりで言ってくれたんだと思うが、残念ながらそれはとどめにしかなってないぞ」
「うん……ごめん、祐一」

 つい先ほどまでの談笑の雰囲気から一変して、場の空気は確実に重くなってしまっていた。
 祐無以外の全員が例外なく祐無の方を見て、彼女の次の言葉を待っている。
 しかし彼女はこの場をどう切り抜けるのかを考えるのに必死で、なかなか口を開けない。
 栞と名雪は場の空気を変化させた一旦を担っているので責任を感じてただ閉口していることしかできず、潤は他人のバックグラウンドには足を踏み入れないようにしているし、興味もなかった。
 だから最初に痺れを切らしたのは、香里だった。

「ねえ相沢君。……話してもらえるのよね?」

 彼女には、自分の苦しみを全部祐無に打ち明けた過去がある。
 自分を苦しみから解き放ってくれた人に、今度は自分が手を貸してあげたいと思うことは、ごく当たり前のことだった。

「たいした話じゃないぞ?」

 今のわずかな沈黙の間に、祐無はこの危機をどう回避したらいいのかを考え終えていたようだった。
 ちらりと名雪の方を一瞥してから、本当に言い辛そうに口を開く。

「実はオレ……誕生日っていうのが苦手なんだよな」
「はぁ?」

 祐無の言葉に素っ頓狂な声で反応をしたのは、潤だった。
 彼は傍観者を決め込むつもりでいたのだが、あまりにもそのまま過ぎる理由に拍子抜けしてしまったらしい。
 香里に睨まれてバツの悪そうな顔をしている姿を見て、祐無は不謹慎にも、彼を可愛いと思ってしまった。

「相沢君、それくらいのことは昨日のあなたを見てればわかるのよ。あたし達が知りたいのは、その理由なんだけど」
「わかってる。で、その理由なんだけどな……」

 祐無はもう一度名雪の方を見てから、決意を固めて、言う。

「オレが生まれたその瞬間に、親戚の一人が死んだらしいんだ」
「祐一。もしかして、その親戚の人って……」

 続けざまに自分に送られた視線の意味に気付いて、名雪が口を挟んだ。

「ああ、名雪の父親だ」
「やっぱり……」

 全員の視線が、今度は名雪へと向けられる。
 彼女は悲しむでも落ち込むでもなく、その仕草は母親譲りなのだろうか、頬に手を当てて目を伏せている。

「だから、心の底からオレの誕生を喜んでくれた人っていなくってな。
 両親ですら、オレの誕生日を祝うのに後ろめたさを感じずにはいられないらしいし。
 父さんと叔父さんは親友だったらしいから、仕方ないのかもしれないんだけど」
「そうなの……」
「だから昨日は、自分の誕生日じゃないにしても、名雪の隣で誰かの誕生日を祝うのに気が引けてただけだ。
 家に帰ってからも落ち込んでたのは、ただそんな自分を悔やんでただけ。やっぱり本心じゃ、香里の誕生日を素直に祝ってやりたかったからな」
「ぅ……あ、ありがと」

 祐無のまっすぐな言葉を受けて、香里は少し照れた。
 それを見た潤はわずかに複雑な表情をしたが、この状況下でそれに気付いた者は誰もいなかった。
 ちなみに嘘八百のように聞こえるかもしれないが、祐無が言ったことはすべて事実である。
 この話は随分昔に父から教えられていて、彼女はその当時から、それを自分の犯した最初の罪だと認識している。

「……やっぱりこんな辛気臭い話、食事中にすべきことじゃなかったな」
「えぅ……本当ですよ。お弁当が美味しくなくなっちゃいました」

 祐無はこの話はもう終わりだと言わんばかりに立ち上がって、短く「お先に」と言い残して食堂から出て行った。

「ごめん栞、お弁当箱お願いね。あたし、ちょっと相沢君に用事ができたから」
「え? もしかしてお姉ちゃん、今の祐一さんを追いかけるつもりなんですか?」
「それは流石にやめた方がいいんじゃないか? そんな相沢に追い打ちをかけるような真似」

 続いて立ち上がりかけた香里を、栞と潤の二人が制止した。
 しかし彼女は悪びれる様子もなく、逆に自信たっぷりの表情で言い返す。

「そうじゃないわよ。相沢君があたしの誕生日を祝いたかったって言ったから、今日の放課後にでもどうかと思っただけ。
 名雪のいないところでなら、相沢君も普通でいられるんじゃないかと思って。それが一番の慰めになると思うし」
「そうですね。それがいいです」

 栞が同意してくれたのを見て、香里は背を向けて一歩を踏み出した。
 しかしそこで思い出したように振り返って、一言。

「名雪も。自分が生まれる前のことなんだから、いつまでも暗くなってるんじゃないわよ」
「わ、わかってるよ」
「それじゃあね三人とも。また会いましょ」

 そう言うと香里は、祐無を追って小走りに駆け出した。
 残された三人は、黙ってその後姿を見送っている。

「どうしてわたしは香里も祐一も、大切な人を自分で支えてあげられないのかな……」

 そう呟いた名雪の声を、潤も栞も、聞こえない振りをして回避した。